2005年01月17日

阪神大震災

あの日から10年経った。直接被災したわけではないのですが。
大阪で一人暮らししていて、早朝揺れを感じた。でも寝ぼけたまま布団にもぐっていた。
電話が鳴り、実家(西宮)の母から「家はめちゃくちゃだけど、みんな生きてるから」とのこと。
テレビをつけると、大地震が起こった模様。阪神高速が横倒しになっている映像を見て、背筋が凍る。
とりあえず会社へ行く。神戸方面に住んでいる人は、当然のことながら出社してない。電話をしても全くつながらない。
神戸、芦屋、西宮、宝塚には友達がたくさんいる。付き合っていた人も神戸だった。みんなが無事かどうか気になり、仕事も手につかない。どこにももう電話はつながらない。
夜、彼から電話があった。たんすの下敷きになったものの少しの傷ですんだ、電気、ガス、水道すべて止まっていると、公衆電話から連絡をくれた(それも大行列に並んで)。しかし次の日の朝、テレビを見ていると、彼の住む地域がガス爆発の危険ありで、避難指示が出ていた。家族で小学校へ避難したらしい。一度連絡がとれても、生きているのかまた心配になる。実家とも、最初の電話以降、連絡がとれないままである。心がざわざわして止まらないまま、地震報道のテレビだけをずっと見ていた。NHK教育テレビでやっていた伝言板のようなもの(生きていたら○○へ連絡を、というやつ)を見ていると、小学校の同級生の名前もあった。
次の日くらいから深夜1、2時から早朝までなら電話が通じるようになる(電気、電話が通じている地域のみ)。毎日何人かの友人と話し、知り合いの安否を確認しあった。私のことを心配してくれた電話もいっぱいもらった。とてもありがたかった。
しかし、会社の先輩Sさんが亡くなったことも分かった。うちの実家の近くで、同じ小学校に通っていた人だが、崖くずれでその辺りの家はすべて土砂に埋もれてしまった。結婚を控えて会社を辞めていて、その前日には婚約者が長野から来ていたという。少し早く結婚していれば助かったのに、と無念であった。遺体安置所へ行くかとも言われたが、恐くて行けなかった。婚約者がそばで呆然としていたそうである。その人にかける言葉も見つからないと思った。
地震から3日くらいしてから、実家へ行った。電気は通っているので、電気ポットやお総菜を買って。大阪の梅田では普段と何も変わらないことが不思議だった。阪急で西宮北口まで行き、4 kmほど歩いた。途中の景色が恐ろしく変わっていた。家々がくずれている。いつも通っていた道路の高架が落ちている。何とも言えない光景だった。写真を撮ることもできなかった。母は逆に元気で、家の中を片付けたり、おにぎりを作って近所の人に配ったりしていた。
間一髪助かった人の話もたくさん聞いた。たまたま起きてトイレに行っていて、部屋に戻ったら、頭の位置にテレビが落ちていたとか、少し前の日に部屋の模様替えをしたおかけで助かったとか。生死を分けるものは何だろう、と思った。
交通機関、電気、ガス、水道、道路などが徐々に復活していった。彼のところは復活するのが特に遅く、ガスが通ったのは4月中旬だったと思う。だんだん落ち着いてきて、自分の知っていた町や三宮の町を見に行ったりもした。
しかし、その年に転勤で関西を離れることになった。そのために車を買ったが、駐車場を借りて神戸ナンバーにした。その後は、里帰りするたびに、新しい家、マンション、町に驚くという感じで、不思議な感じがしている。
posted by かばここ at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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